全国都道府県議会議長会

府県会前史

 わが国における議会制民主主義の萌芽は、明治元年3月14日に発せられた「五箇条の御誓文」に見出すことができる。すなわち、その最初に「広く会議を興し万機公論に決すべし」とあり、これが次に述べる藩議会、地方民会の発祥へとつながる。

 府県レベルの合議機関は、維新後の藩政にあっての藩議会から、実質的には廃藩置県により断絶したものの、府県レベルの地方民会を経て、明治11年の府県会に至る。

藩議会

 御誓文を具体化した政体書(明治元年閏4月21日)の発布によって、府、藩、県を地方行政区画とし、府に府知事、藩に諸侯、県に県知事を各一人置くという府藩県三治制を定めた。

 これに基づき、維新政府は、藩体制に関する最初の単独法規である藩治職制(明治元年10月27日)を定めた。それによると、藩の大小を問わず各藩には画一的に執政、参政、公議人の3職をおき、執政及び参政が藩の行政に当たることとなっている。但し、これには旧来の門閥家格によらず、人材を登用して努めて公選制によること、藩政と藩主の家政とは明確に分離すること、また藩議会を設けて公議人がその議員となるよう改革すべしと定められている。

 これに応じて早くもその機関を設けた藩もあったが、版籍奉還(明治2年6月17日)により、旧藩主を藩の知事とするとともに、職員令(7月8日)により地方長官の職制、権限等を明示した。これにより府藩県三治の一致は更に進み、このころから各藩において藩の事情に応じた会議制度が考案され実施されていく。

 しかしながらこの試みは、成熟するにいたらず、廃藩置県(明治4年7月14日)により藩とともに消滅した。そこで、全国の行政区画は府県の二治となる(3府306県)。

地方民会

 廃藩置県により、各府県の地方官に抜擢された人々は、その地方官独自の機関として議政機関を設けた。当時は依るべき法律もなく、その名称もまちまちであったが、これら地方議会の試みは一般に「地方民会」と総称された。

 第一回地方官会議(明治8年6月20日)の際、議長木戸孝允は「今全国府県の民会を開くもの7県、区戸長会を開くもの1府22県、其議会なきもの2府17県、其の余未だ明ならず」と紹介している。